2011ジョムソン街道(塩の道)トレッキング
   3月7日〜3月18日
メンバー: 福沢すみ子 務台康子 後藤幸子 園田武明 岡 重雄
コース : 中部国際空港〜バンコク〜カトマンズ〜ポから〜ベニ〜タトパニ〜ジョムソン〜ムクチナート〜ジョムソン〜マルファ〜トゥクチェ〜ポカラ〜カトマンズ
この記録は、今回の山旅に、ご一緒した、桐生の岡重雄さんに書いていただきました。有難うございました
カトマンズ〜ポカラへ、機上からのマナスル三山、左からマナスル、P29、ヒマルチュリ


3月7日(月) 中部国際空港〜バンコク

安曇野市からはハイウエイタクシーで、旭川からは空路で、そして、桐生市からは新幹線の鉄道で、中部国際空港(セントレア)に集結した。季節外れの雪が降ったりして、多少心配はあったが、予定の時刻には余裕を持って到着できた。
チエックインを早々に済ませ、4階のスカイタウンに上がって、ゆったりとお茶を飲みながら、これからの旅に思いを巡らしたおしゃべりで時間をつぶす。
国際線を利用するとき、時間に余裕を取るので、どうしても、待ち時間が長くなる。この日も、到着してから搭乗するまでに2時間くらいは待つことになった。
私たちを乗せたTG645便はバンコクに向けて、ほぼ、定刻の17:00にテイクオフした。安定飛行に入ると、機内サービスが始まり、やがて、夕食になり、チキンとフイッシュから選択するのだが、タイ航空の食事は総じて旨いように思う。
バンコクには、日本との時差は2時間あるが、現地時間の21:30スワナンプーム国際空港に着いた。88階建の高層ビルのバイヨークスカイホテルに着いたとき、ホテルの時計は22:45を示していた。高級感のあるホテルだが、ここでは寝るだけだった。

出発前のひと時、中部国際空港

バンコク.バイヨークスカイ ホテル

バンコクホテルの朝食 
3月8日(火) バンコク〜カトマンズ
今日の日程はカトマンズに行くだけである。だが、バンコク10:30発TG319便に乗るために5:30に食事を始めなければならない。76階の眺めのいいレストランには、日本食から中華、勿論、タイ料理も、多種にわたった料理が用意されていて、しかも、旨かった。
7:00にピックアップを予約しておいたタクシーがなかなか来ない。車を付ける場所が違っているのではないかなどと、やきもきしながら待っていると、10分ぐらい遅れてやってきた。悪びれる様子もなく、にこにこしながら運転手は降りてきた。言葉が通じないことはこういう時には都合がいいものだ。文句を言っても通じないのだから相手は平気である。
無事7:40頃には空港に到着し、すぐにチエックインした。エントランスがチエックポイントになっていて、一昨年とは変わっていた。搭乗まで、また、2時間半ほど待つことになった。
10:20に搭乗し、カトマンズまでは3時間のフライト、時差が1時間15分ある。現地時間で13時カトマンズ空港にランデングした。入国審査官はけっこう愛想がいい。気持ちよく入国手続きを終えたが、荷物を受け取るのに小一時間かかり、ヒラさんの出迎えを受けて、ホテル.ヤク&イエティには14:30に到着した。
カトマンズも少しずつ経済発展しているようで、バイクの数が、また、増えたように思う。
メインストレートではセンターラインにバリケードが置かれ、道路も横切れなくしてあった。遠回りして横断歩道おあるところまで行かないと渡れなくなった。それも、かなり緊張を要求されるほど交通量がある。2年前に比べると歩行者にとっては、かなり、不便になった。
これまでは、ホテル.アンナプルナを利用していたが、昨年からこのホテルに変わったらしい。
どちらのホテルも「地球の歩き方」によれば、高級ホテルに分類されている。ここではそうだろうと実感できる。テニスコートもプールもあった。
今日は街に出かけることもなく荷物の整理などをして、ホテルで過ごした。夕食は日本レストランの「古都」で取った。夜になるとカトマンズはけっこう寒くなった。
水を買ったりするため両替をしたが、1万円が8,400ルピーだった。
さすがに高級ホテル、熱いお湯が十分に出て、ゆっくりとバスタブにつかることが出来た。街の騒音もなく、周囲からの音もなく、静かな夜が保証されていた。

タイ国際航空でカトマンズに到着.

カトマンズ空港
カトマンズの交通事情(旧王宮前) 

3月9日(水)カトマンズ〜ポカラ
今日もゆっくりとした日程である。空路ポからまで移動するだけである。それでも、6:30には起き、7:00から朝食につく、作朝のタイのホテルに比べると、一流とはいえ、少し種類も質も見劣りするようだ。食材そのものに差があるのかもしれない。野菜に関しては、朝市などで見られるように、新鮮で豊富そうだ。だが、海産物などは内陸なので干物が多いように見えるし、果物もバナナ類を除けば、オレンジやトロピカルフルーツもそれほどでもない。日本の果物を食べ慣れていると味が貧相だ。肉類もそうだと思うが、量の追及はしても、質の向上を目指すという段階ではないようだ。日本は少々過剰のようだが、タイなども経済の向上に伴い、質を追求し始めているということか、しかし、郷に入っては郷に従え、ネパールの味を楽しんで朝食を済ます。
芝生の中庭に出てみると、散歩をしている人、テニスをしている人などがいて、スタッフが散水をしたり、プールの掃除をしたりしていた。李だか杏だかの花が咲いていて、日本より少し季節が進んでいるのではないかと感じられた。
ホテルを9:40に出て、空港には20分ほどで着いてしまった。早々にチエックインを済ませて、少し暗めの決してきれいといえない待合室でボーディングチエックの始まるのを待った。空港についてから50分ほど待って、飛行機に乗り込むことが出来た。
朝から怪しい天気だったが、飛行機に乗り込む頃に、ぽつりぽつりと雨が落ち始めた。福沢さんは、降ってしまえば明日は晴れると、雨を歓迎していた。案の定、山は見えなかった。一昨年イエテイ航空に乗った時撮った乗務員さんの写真があったので、乗り合わせた乗務員さんに渡してもらおうと見せたら、片言の英語でよく分からなかったのだが、姉妹だと言ったように思えた。そうならば、奇跡的なことだと思った。
30分ほど飛んでポカラ空港に11:25、無時ランディグした。ポカラは晴れていた。
後で知ったことだが、管制官の指示でTG319便が着陸態勢にはいったところに、イエテイ航空の方が離陸を始めた。TG319便の方が高度を上げて、辛くも衝突は避けられたそうだ。我々が飛び立った2時間後にそんな怖い出来事があったのだそうだ。
園田さんと自分の共通の友人が、昨年秋に、空港の近くの水路にはまって亡くなっていたという出来事があった。二人でそれらしい所をあちこち見回し、詮索してみたが、想像の域を出ず、結局は分からずじまいで帰ってくることになった。
11:45、ホテルメラに到着。荷物を部屋に置くとすぐに昼食になった。
ほぼ、半日の自由時間をベッドで休んだり、街に出てぶらぶらしたりして過ごした。ホテルの前のなじみの登山用品店で、値切り交渉をするのが楽しみになっているようで、これから、トレッキングが始まるというのに、早くも、買い物を楽しんだ。
時々停電があるために、ろうそくの灯りで、ホテルの夕食を、ゆっくり楽しみ、9時には床に就いたが、騒音としか言えない音楽の強力な音のために、なかなか寝付けなかった。

Yeti Airに搭乗カトマンズからでポカラへ
 
客室乗務員


3月10日(木)ポカラ〜タトパニ

福沢さんの予言通り、辺りはまだ明けきらないが、アンナプルナもマチャプチャレも朝日に白く輝いて、すっきりと見えている。さっそく、昂る気持ちのままに、カメラを持って屋上に駆け上がる。
朝食前のひととき、その美しい姿を堪能する。
今日からいよいよトレッキングの始まりだ。とは言っても、バスでの移動ではあるが。
早い朝食を済ませ、ホテルのワンボックスカーに乗り込み、ベニまで送ってもらった。途中、マチャプチャレが家並越しにくっきりと見えた。すかさず、車を止めて写真を撮らせてもらおうと声をかけただ、もっと良いビューポイントがあると言うので、そこに賭け、車窓にそこを探しつつ止めてくれるのを待ったが、結局、そうゆう地点はなく、やがて、見えなくなった。
写真はそこと思った所で、まず、撮っておくことが大事だと再確認した出来事だった。
途中、ナヤプールに立ち寄って、我々の荷物を背負うための袋とひもを買った。ナヤプールは一昨年のトレッキングのスタート地点だ。
7:20にホテルを出発して、ベニには10:40に着いた。ここも、一昨年立ち寄った所だ。バスターミナルはほこりっぽく雑然としているが、それなりに活気はあるように見えた。ここからは乗り合いバスに乗ることになっている。なにか冒険が始まりそうな期待と、ちょっとばかりの不安な気持ちで、乗るバスが来るのを待っていた。ヒラさんとまるちゃんが掘建て小屋のようなチケット売り場で、交渉でもしていたのか、しばらくして戻ってくると、ジープが来て、我々の荷物をその屋根に積み始めた。まだ、小学生くらいの少年がてきぱきと積んでいる。このジープお付の助手に違いない。だいたいこの仕事はこのような幼い子供がするようだ。準備が整うまで、ビルの二階にあるレストランでお茶を飲むことになった。そこの若い主らしい男は日本語が上手だった。聞けば新潟で働いたことがあると言っていた。
そのレストランの壁に、畳二畳分くらいはありそうな、ラサのポタラ宮の写真が飾ってあったが、この後、行く先々で同じものを見かけた。
お茶を飲みきらないうちに準備が整ったと声がかかった。ここに着いてからかれこれ1時間ぐらいが過ぎていた。ジープだったのでチャーターしたのかと思っていたら、我々以外に乗る人がいて、すでに、乗り込んでいた。ジープは乗り合いだったのだ。前2列の座席に運転手を入れて8人、本来、荷物を積む後部のスペースに幼児を入れて7人と荷物、それから、屋根に助手の少年、都合16人が乗り込んだ。もう一人いたような気もする。荷台の方の乗客はジョムソンに住んでいるトレッキングガイドだという若者が2人。失業中でポカラからジョムソンの友達の所に行くのだという若者。トレッキングガイドの仲間らしい幼児を連れた若夫婦。前の座席には我々の仲間ともう一人初老の男が座った。トレッキングガイドの若者は見入れが良いらしく、こぎれいな支度をしていて、若者らしいおしゃれをしていた。日本で見かける若者と何ら変わらなかった。それに比べると失業中の若者は、やや、粗末なここでの一般的な身支度だった。片言の会話で少し打ち解けることが出来た。
ベニまでの道も、トヨタのワンボックスカーでもかなり厳しかったが、ここからは、少し桁違いで、洗濯板の上を走るというが、凹凸の差が激しい洗濯板の上を、たぶん板ばねだろうが、クッションの固い車で突っ走るのだから、たまったものではない。もうもうと立てたほこりを自分を自分でもかぶりながら、崖縁の狭い道を、2時余走って、やっと、タトパニに着いた。車から降りた時には肩が凝り、歩きもしないのに疲れた気がした。十分楽しんでいたのだが、想像していた以上にぎゅうぎゅう詰で体力を要した。それに自分でチケットまで買うとなると、これは難しそうである。
ここも、やはり、一昨年に来たことのある思い出深い所だ。今度のロッジは、前のロッジよりも少しだけ奥まった所にあり、広さも広く部屋数もありそうに見えたが、ただ、トイレがあまりきれいでないのが気になった。庭にオレンジの木があり、実がなっていたが、飾りだから採らないのだそうだ。ひなたボッコをしながら、あばあさんが綿の打ち返しをしていた。
遅い昼食にダルバートを食べて、露天風呂行くことになった。この前撮らせてもらったこの人たちの写真を持ってきていたので、露天風呂に行きながら、写っている人たちを捜し、配って歩いた。直接渡せたのはすくなかった。写真では、無邪気そうに、お母さんと路上でゲームをしていた女の子が、すっかり、大人になっていたのには驚いた。インドのレーから来ていると言っていた人が営む、チベッタンの民芸品を売る店は閉まっていた。親しみを感じていたので残念だった。
風呂は空いていた。日本では、早春の沢筋で聞く鵜飼の囀りに似た、鳥の囀りが聞こえてきたりして、のどかだった。疲れるほどゆっくりと入り、十分暖まってロッジに帰った。
夕方になるとかなり冷え込んできた。食堂は眺めの良いところに設けてあった。夕食のためにテーブルに集まっていると、ニルギリが夕日に映えて赤みを帯びてきた。急いで部屋にカメラを取りに走って、戻ってきた時にはガスに隠されていた。大きな魚を釣り落とした気分になると同時に、カメラは常に手元においておかなければと反省した。とても、悔しかった。夕食に出たモモと茹で野菜がおいしかった。
夜は大分冷え込んできたので、湯たんぽを用意してくれた。日が暮れれば寝るだけなので、20:00には床についた。湯たんぽのお蔭で熱すぎるくらいだった。


ベニからジープに乗る




車窓から
←マチャプチャレとアンナプルナサウス↑

 

昼食はネパール定食.ダルバート
 
タトパニの温泉

3月11日(金)タトパニ〜ジョムソン
ニルギリは見えていたがすっきりというわけにはいかなかった。7:00という時間のせいもあったのだろうが、基部には厚い雲がかかっていた。全体的には薄曇りという気配だった。
ジョムソンニに向けてベニから来る車を待つ。いつ来るのかははっきりしない。9:00頃だろうというので、タトパニの集落を被写体を求めてぶらぶらすることにした。
カリガンダキ川に沿った自動車道路から、崖を登って、やや、高くなったところにタトパニの集落はある。長さは1kmに満たないくらいの石畳の路地を挟んで、ロッジと土産物屋が並んでいる。
おそらく、ゴラパニ方面とジョムソン街道のトレッカーと温泉客で商売は成り立っているのだろう。
自動車道が開けて、バスが走り、その日のうちにベニからジョムソンまで行けてしまう。タトパニにとってそれが良かったのかどうなのか、外国人は少し見かけたが、温泉客らしい人は見えなかった。シーズンではないのかもしれないが、前回よりも圧倒的に風呂の客は少なかった。便利さの恩恵を受けながら、人の流れが変わってしまって、裏目に出てしまった例は日本にはいくらでもある。
バスは9:50になって、やっと、来た。一応、発車時刻は決まっているらしいのだが、乗客がいっぱいにならないと発車しないのだそうだ。昨日と同じ乗り合いジープを想像していたが、れっきとしたバスだった。韓国人だという独り旅の若い女性が同じバスを待っていて、我々が予約してあるのを知ると、それに乗せてもらえないかと言ってきた。まるちゃんは大丈夫だろうと答えていたので、多分、昨日のようなジープだろうと思ってしまった。
やってきたのはバスで、既に、満員だった。我々の席は予約済みで、確保されているという。助手のおにいさんが、座っている人を移動させて、我々の人数分の席を空けてくれた。ちょっと申し訳ない気分になった。よそ者が、途中から乗り込んできて、座っている地元の人を動かし、その席に座ったら、面白くはないだろうと思った。韓国人の女性は席を確保しようと頑張ったが適わず、ヒラさんに次のバスを進められて、そうしたようだ。一人旅をしているだけあって、彼女の振る舞いはさすがだと、その逞しさには驚かされた。
立錐の余地がないというほどバスは混んでいた。何人乗っているかは分からなかったが、前向きに並んだ座席の前の、運転手を囲むペースだけでも、10人はいたと思う。運転手にくっついている子供もいた。我々は荷物を抱えながらも座席には座れた。
さすがに、激しい揺れに耐えて、長時間立っていられるものはいないらしく、全員が座っていた。ただ、助手とガイドのマルちゃんは乗車口に立っているときもあった。あの激しい揺れの中でも眠っていた少年僧がいた。たいしたものだと感心してしまった。
長丁場なので、バスは途中休憩を入れる。ガーサに11:10に着いて、12:00に出発した。
その間に昼食を取る。田舎のレストランでラーメンを食べた。ネパール製の即席ラーメンのようだが、美味しかった。
バスはカリガンダキに沿って、ときには、河原を走り、渇水期のため水の少なくなっている流れを横切り、あるいは、斜面を登り川を見下ろす道を登り、また、川に戻り、少しずつ高度を上げて行く。相変わらずがたがた揺れながら、もうもうと砂埃を立てて、しかし、逞しく走る。かなりぼろに見えるが力はありそうだ。新しくてはこの道にはもったいないということだろう。
1時間半ほど走ってトイレ休憩を取った。そこで、友達の結婚式の帰りだという若い女の子が数名乗り込んできた。帰りに立ち寄るツクチェ、マルファは通過して、15:00ジョムソンホテルの玄関口に着いた。そこが、今日から2連泊するホテルだ。
今朝方、心配した天気も、これまでは晴れていたのだが、ここに来ると曇っていて寒かった。標高1180mから2700mまで上がってきたのだから寒いのは当たり前と言えば当たり前だ。風が強く風花のようなものまで舞っていた。

このホテルのテレビで東日本大震災を知った。福沢さんの旦那さんに電話で連絡を取って、群馬は問題ないと知らされたが、ニュースで伝えられるその激しさに、戸棚が倒れたり、棚のものが崩れたりしたのではないかと心配になった。アルジャジーラとかCNNだとかがひっきりなしに地震のニュースを流していた。それだけで、とてつもない地震に襲われたのだということが分かった。日本人だと知ると心配して声を掛けてくれる人もいた。
夕食まで時間があったので、園田さんと、ダウラギリに消えた星野龍史君たちの慰霊碑のある場所を探しに出かけた。ジョムソン空港に沿って、ほぼ滑走路の長さと思われる範囲で、広い道路続き、石造りの新しい建物が出来ていた。いかにも新興の街という趣だった。
八木原氏の教えてくれた通り、空港のはずれ辺りに軍隊の駐屯地があり、さらに、カリガンダキ川に架かる吊り橋を左岸に渡って、しばらく行くと、小高い丘の上に白い塔のようなものが沢山見えた。その中の一つであろうと見当をつけて、時間も遅くなったので引き返してきた。帰りがけにバスで一緒だった少年たちに会った。
橋を渡ってからの道や家のたたずまいから見ると、こちらの方がもともとの村だったのではないかと思った。案の定こちらが本村だそうだ。吊り橋と普通の橋とが並ぶように2本架かっている。これも新旧という関係だろうか。また、カリガンダキ川は、ここら辺りだけ、川幅がやけに狭い。
部屋は、今までのトレッキンングで世話になったロッジと同じようだが、ホテルと名乗っているせいなのか、トイレとシャワーがついていた。ご多聞に漏れずシャワーは十分お湯が出るわけではなかった。天水を利用しているという話だったが、それにしては良く水があるものだと思った。夜になるとさらに寒さが増してきた。夕食は大きなテーブルに毛布を掛けて、中にストーブを入れた炬燵風の食卓で、暖かく、ゆっくり、時間をかけて食べられた。その間も日本の地震のニュースが流れていた。外国の人も関心を持って観ていた。
今夜も湯たんぽを用意してもらって、暖かく寝られた。

タトパニからジョムソンへはバスで移動


タトパニの集落

朝のニルギリ
3月12日(土)ジョムソン〜ムクチナート〜ジョムソン
ニルギリの頂上部に光が射して輝いている。タトパニから見るのとは違う山容だ。反対側を見ていることになるのだろう。カリガンダキ川の下流方向には、手前に尾根が邪魔をしているが、ダウラギリのピークの一つとそこからカリガンダキに向かって流れ落ちる長い稜線が見える。レンズをあっちに向けてこっちにむけしてシャッターを切った。
ムクチナート行のジープ乗り場は、昨日、慰霊碑を見つけにきたときに来たので分かっていた。カリガンダキ川の左岸に渡り、村が終わる辺りにあった。
川を渡るのに、自動車が渡れるような橋はないので、向こう岸にジープがあるのが不思議だった。聞くところによれば、渇水の時に川を渡っておくのだそうだ。
ホテルを7:20に出て、30分足らずで乗り場に着く。客が集まらないと発車しない。辺りをぶるぶらしながら客の集まるのを待つ。ジョムソンまでバスで一緒だった少年僧が入ったゴンパがあったり、幼児から高校生くらいまでがいる学校があったり、村はずれながら人が集まってくる。ダウラギリも、ピークには、ちょっと、雲がかかっているが、よく見える。強い風が吹いているせいだという。写真を撮りながら、いつになるか分からない発車時刻を待つ。
1時間ほど待って、ようやく、乗る車が決まり、乗り込むことになった。我々の他に6人くらいはいたように思うが、少しでも良い座席を取ろうと先を競うように乗る。車室は2つに分かれていて、後部の荷台に当たる部分に園田さんとマルちゃん3人が乗った。他の4人は客室部に乗った。荷台部でも、前列に前向きに座れたので、前方だけは見えた。しかし、横向きの座や後部の座席に座ったりした人は、覆いに窓はないので、景色を見ることは出来なかった。
発車するとジープは、すぐに、カリガンダキの河原に下りて、カクベニまでは、ほとんど、広い河原を走った。1時間足らずでカクベニに着き、一服して出発した。車は少し戻ってからムクチナートに向かった。手前のエクレバッテイという小さな宿場が、ムスタンとムクチナートの分岐になっている。カクベニで降りる乗客がいたので、ムスタン方向に少し入ったカクベニまで遠回りしたのだ。お蔭さまでカクベニを知ることが出来た。
カクベニというところは、広い耕作地があって、麦の緑が、殺伐とした風景に生気を感じさせ、ほっとした気分にさせてくれる。一瞥しただけだが、豊かそうに見えた。帰りに、遠くから眺めたところ、美しい集落のように見えた。立ち寄ってみる価値はありそうに思えた。
車はカリガンダキ川を離れて、斜行する道を登り始めた。どんどん登っていくという感じだ。
やがて、直行する道になり、遠く雪をいただいた白い山並に向かって、荒涼とした風景の中を1時間くらい走ると、タルチョたなびく美しいチベット村のジャルコットに着いた。荒涼とした大地の奥まったところに、こうして人々は暮らし、美しい村を作っているのはなぜか、いつも不思議に思う。最初、インドのレーを訪ねたとき見た同じような風景にはショックを受けた。桃源郷とかシャングリラという言葉を思ってしまうが、それはよそ者の感じ方で、実際の暮らしぶりは厳しいに違いない。龍史君のスケッチで、とても気に入っているものだが、「聖地ムクチナートより遠く望む」と題した絵はジャルコットを描いたものではないだろうか。
ジャルコットを過ぎて20分ほどでムクチナートに着いた。二、三日前に降ったという雪がそこここに残っていた。ジープから降りて歩き出すと頭がくらくらするような気がした。富士山の頂上くらいのところに車で来て、いきなり歩き始めたのだから、高度障害が出ても不思議ではない。レストランで食事が出るのを待つ間に、パルスオキシメーターで測ったら酸素摂取量は70%代まで落ちていた。深呼吸をしたら、すぐに80%代後半まで回復した。
ムクチナートはヒンドゥー教と仏教の大聖地だということだ。インドからも巡礼に来るそうだ。まだ、時期が早いらしいが、それでもお年寄りの団体がいて、寺院のあるところまではかなり登らなければならないものだから、バイクタクシーで一人ずつ運んでもらっていた。
ここには、ロッジはないらしいが、バッテイや土産物屋、お供え物を売る店などがあって、門前町の様子を呈している。天気が良く、振り返ると、白いダウラギリ山群が鮮やかに見える。
結構な登りを、喘ぎ喘ぎ、やっと、寺院に到着した。規模は思っていたよりはこじんまりしていたが、古びたかんじといい、手の込んだ作りといい、荘厳で立派なものだった。奥殿には外国人は入れないらしい。ヒラさんやマルちゃんは恭しい面持ちでお祈りしていた。我々もお賽銭を上げてお祈りしてきた。
本殿の裏手を取り巻くように、弧を描いて並んだ蛇口から、水がほとばしっているところがある。蛇口は108あるそうだが、一人の女性が、その水にうたれながらそこを走り抜け、さらに、本殿の前にあるプールもようなところに入り、また、水の壁の下を走るということを何回か繰り返していた。滝行のようなものだと思った。蛇口から出る水は聖水だそうだ。
ダウラギリをバックに記念写真を撮ったりしながら、のんびり下る。ダウラギリをバックにすると逆光になって、人は真っ黒になる。ダウラギリと人に当たる光の強さの差が大きいので致し方ない。ジープ乗り場に下りながら、携帯電話の中継基地があるのを発見した。ジョムソンに来るバスの中で女性が携帯電話を使っていたが、納得できた。
ジープ乗場では客が揃うのを待ったが、なかなか揃わない。2人ほど足りなかったのだそうで、2人分の運賃を余分に払うということで交渉がまとまり、発車した。ちなみに、外国人の料金は倍くらいするらしく、片道1.500ルピーだそうだ。それでも、日本のお金にすると1.800円くらいである。下り始めると驚いたことに、あの韓国人の女の子が、バイクの後ろに乗って上がって来た。彼女も我々に気がついて手を振って行った。怖いくらい逞しい子だ。ジョムソンからバイクでも運んでくれることも分かった。
帰路はカクベニに回らず1時間ちょっとでジョムソンに戻った。
マルちゃんが、慰霊碑のある丘に登る道と、龍史君たちの慰霊碑がどれかを地元の人に訊いてくれ、迷わずに見つけることが出来た。昨日の見当通りだった。沢山ある碑の中でも大きく見えた。また、銘文のプレートが篏めてあるものものはこれ以外近くにはみあたらなかった。ダウラギリを見ながら碑は立っていた。お線香を供えみなさんにも冥福を祈ってもらった。
ホテルの近くの乾物屋のような店で、昨日バスで一緒だった若い女の子をマルちゃんが見つけて、話しかけた。すると、おばさんたちが二人を冷やかし始めた。ひとしきり盛り上がったが、お愛想に買い物をしてそこを引き上げた。ホテルに戻ったのは午後4時半だった。
日向水のようなシャワーで埃を流し、夕食までに時間をのんびりと過ごした。昨夜と同じ炬燵風のテーブルで夕食を終えそれぞれの部屋に分かれて、早い床に就く。

ムクチナートから望む ダウラギリ主峰

ムクチナートの本殿
水槽で沐浴をする女性



 慰霊碑を囲んで
  
 
一休みする巡礼者
3月13日(日)ジョムソン〜ツクチェ
昨夜はどうしたわけか、特に、眠りが浅かった。不眠のようですっきりしない。皆も同じように良く眠れないと言っている。いつもながら、どうしてだろうと思うが対策はない。毎晩ぐっすり眠れれば旅はもっと楽しくなるのにと少し恨めしい。
今日は今トレッキングのメーンイベントの日。文字通り車を使わず歩きだけの日だ。従って、ポーターも二人付いて、我々の荷物やシュラフを背負ってくれる。
7:30ホテルを出発する。風が少しあるような気がするが、もう、ポカラからの飛行機が飛んできたので、天気は良いのだ。道はカリガンダキに沿っている。車が来ると砂埃がきついが、交通量がそれほどでもなさそうなので助かる。
歩き始めると、ネパール兵の一団がランニングして来た。トレーニングだという。愛想良く話してくれた。号令一下斜面を駆け上がったりもしていたが、あまり厳しそうには見えなかった。案外平和なのかもしれない。
道は河原に下って行った。しばらく、広い河原を歩き車道に戻ると、小さな村に出る。果物畑のある美しい村だ。麦も緑を添え、桃かと思う花も咲き始めていた。マルファを中心とするこの辺り一帯は日本のNGOがすすめた林檎栽培が盛んなようだ。林檎に限らずこの土地に適合する果物を見つけるための試験栽培もおこなわれているということだ。
ジョムソンを出てから1時間半、マルファの上手の入り口に着いた。マルファはこのコースで一番美しい村だといわれている。今回の旅の目的地の一つでもあった。
村の入り口には、姉妹村の宮崎県の村から贈られた桜が、いわれを記した記念碑と共に、植えられていた。バスで通過したとき見えたマルファは聞いていたのと大違いで、がっかりしたが、本当のマルファは車道からはずれたところにあった。やはり、車道を通して村を壊してしまうような愚かなことはしなかったのだ。
村には門をくぐって入って行く。石畳の細い道を挟み、白い壁の家が並んでいて、お年寄りと子供が多かったが、道の端に集まってくつろいでいる。石畳の道をロバが連なって来たりする。龍史君の作品に「美しきマルファの街」と題したスケッチと詩があるが、それにそっくりな光景に出会った。ダウラギリの登山口を記す標識に気がついた。路地から分かれて、石畳の坂道がダウラギリへの道だった。
通りに面した家の多くはロッジやレストランで、トレッカーを相手にして村の経済は成り立っているらしいが、林檎栽培でジャムやワインの加工品の製造など、新しい産業が生まれているようだ。その昔は、塩の道の中継地として栄え、今の美しい村はその名残に違いない。
明治と大正の二度にわたり、チベット語の仏典を求めて、命がけで独り密かに、初めてチベットに入境した日本人、僧であり冒険家である河口慧海の記念館がここにある。チベットへの途中、この地の有力者の援助を受けたということだが、その人の家がそのまま記念館になり、有力者の末裔が管理している。狭い入り口を入ると、中庭とも土間とも言えそうな広い空間があって、そこから二階に上がると部屋がある。慧海の肖像が数枚あり、そこで生活していたときの生活用品がそのまま残されていた。慧海の生活が想像出来るようになっていた。
慧海を匿った有力者の末裔はロッジを経営している。そのロッジでお茶をのみ、そこを後にした。マルファには1時間半ほどの滞在だったが、もう少し居ても見所があったかなと思う。
果樹園には花が咲き始め、麦が畑を緑に変え、陽光が降り注ぐのどかな村里がしばらく続く。ただ、砂埃だけはいただけない。やがて、また荒涼とした風景になり、道は河原に下りて行く。歩くこと1時間50分、車道からそれてツクチェの村に入る。往路でバスから川越しに望見した時には小さな村に見えたが、入ってみると立派な村だ。マルファと同じく、栄えた時代があったのだそうだ。手の込んだ細工が施された家が目についた。ツクチェロッジは慧海記念館と同じような作りで、狭い門をくぐると中庭があり、客室は、中庭を取り巻いて二階と三階にある。我々の部屋は一番上で、屋上が前庭のようになっている。
ソーラー温水器利用のシャワーは十分熱く快適だった。ここも、シャワートイレ付の部屋で、ネパールで経験したロッジの中で一番きれいだった。さんざんかぶって来た砂埃を洗い流してさっぱりした。おまけに洗濯干場もあって、天気も良く、適当な風まであって、洗濯日和。思い切り洗濯もした。心身さっぱりしてから、遅めの昼食になった。トマトスープにモモ、それから、用意してきた素麺という献立だった。昼食までさっぱりと美味しかった。
こころもち涼しかったので、サンルームの食堂に入って、思い思いの時間を過ごす。時間の流れをゆったりと感じながら、ぼんやりしているとき、幸せだと思ったりしている。山でいつも感じる至福な気分は、こんな時に感じる気分だ。他の人たちも同じようなことを言っていた。
今にして思うと、時間がたっぷりあったのだから、外に出てツクチェをぶらぶらしておけば良かったのに。でも、あのときはおもってもみなかった。
至福のときをたっぷり過ごして、夕食は一階の食堂に移った。ドイツから来たという男性二人、イギリスから来てポカラでボランテアをしているという女性とその学友だという女性が同席しての夕食だった。イギリスの女性がナンプレを楽しんでいたので自分も好きだというと、イギリスでは数独と日本語で呼んでいるという。片言の英語で簡単な内容のおしゃべりをした。食事中に停電があったが、すぐ、自家発電機に切り替えられる。設備も整っていた。
ジョムソンから大分下がったように思ったが、標高差150mちょっとしか下がっていなかったので、夜になると、やはり、冷え込んで来た。今夜も湯たんぽがありがたい。

ニルギリとポカラからのジョムソンフライト

ジョムソンのロッジ

マルファの案内板をバックに

 マルファの村に向かう

カリガンダキの河原と麦畑

 河口慧海の肖像(マルファの慧海記念館)


慧海をかくまった有力者の末裔
 
マルファの街

マルファ.ダウラギリへの道

3月14日(月)ツクチエ〜ベニ〜ポカラ
7:30 ツクチェのロッジを発つ。朝が早めなせいか通りは静かだ。ここの家々の屋根には燃料にするような木材がやたらと積んである。その高さの高い家が素封家なのだそうだ。
車道は、村から見ると、カリガンダキ川の向こう岸を通っている。予約はしてあるが、バスはいつ来るか分からない。荷物があるのでマルちゃんだけは村の近くで待つことにして、我々は歩きながら、来たところで乗るということにした。今日は風が強く車も来ないのに砂埃を巻き上げる。そんな道を辟易しながら1時間半ほど歩いたところでダウラギリの東壁がよく見える河原に出た。直ぐ近くの村は多分コバンという名の村である。
ダウラギリT峰東壁を登攀中の龍史君たちは消えてしまった。その現場を目の当たりにしてこみ上げてくるものがあった。
八木原氏によると、右手から斜め下に向かって、東ダウラギリ氷河が流れているが、その流れ出した真上が東壁で、その右に見える稜線がノーマルルートだそうだ。左手にのびる長い稜線は南東稜で、’79の秋に群馬岳連によって登頂されたということだ。ただ、本当の頂上はここからは見えていないという。
夢中になって写真を撮っているうちにバスが来た。往路のときよりはきちんと座れた。ちょっと走って、カロパニで休憩20分。ここからもダウラギリ東壁が指呼の間に見えた。
ちょうど、はかったように、12時にタトパニに着いた。一昨年にはなかったが、食堂が出来ていた。バスが開通して始まった商売なのだろう。前回泊まったロッジが経営しているらしい。昼食はラーメンにした。それから、来た道を2時間半走って、ベニに着くと、迎えの車が待っていた。そのまま乗り換えて、6時少し前にポカラに着いた。
ポカラのホテルで見たネパールの新聞は、東日本大震災の記事を一面トップで扱っていた。テレビも相変わらず地震のニュースを流していたが、内容が原発にシフトしていた。
来た時と部屋は変わって、前のようにバスタブの栓を全開すると、フロアに溢れ出すということもなく、今度の方が快適だった。砂埃をきれいさっぱり洗い流して、蘇ったような気分になった。ひと風呂浴びてさっぱりしたところで、夕食は「古都」に出かけた。カトマンズの店とは姉妹店だ。鍋焼きうどんが旨かった。少しのビールで酔ってしまった。
今夜は幸い大音響の音楽は聞こえない。

宿泊したツクチェのロッジの部屋

ポーター
 
カリガンダキの車道、バスがなかなか来ない
3月15日(火)ポカラ滞在
フイッシュテール・ロッジに急いで着いたが、マチャプチャレもアンナプルナも薄絹のようなベールに遮られて、おぼろな姿しか見せてくれなかった。まだ、フェワ湖に映るマチャプチャレを見たことがない。3月のポカラはすっかり春なのだ。夏のダリアや藤まで咲いている。
朝食をとると、徒歩で、ポカラ観光に出かけた。ダムサイトのところで、フェワ湖から流れ出す川を渡ると、水田の広がる田園地帯に出る。初夏のような陽気、洗濯日和だったのか、水路のあちこちで、お母さんたちが集まって洗濯をしている。洗ったものは田んぼに広げて干している。のどかな風景を見ている我々もほっとして、心弾んで来た。
スイス人のデブィという女性が落ちたという話がもとで、デブィフォールと呼ばれる、底のみえないほど深い穴を見て、チベット難民の村を訪ね、あいにく昼休みで製品の展示場は見られなかった。その足で、タクシーを拾い、国際山岳博物館へ回った。
山岳博物館は日本の山岳関係者も協力して出来たものだが、民俗、自然、山岳等多方面にわたる資料が収められていて、興味深かった。丁寧に見るには相当の時間が必要だ。
2時近くにホテルに帰り、木の茂みで囀る小鳥の美しい声を聴きながら、スパゲッティとサンドウィッチとピッザで昼食にした。野外テーブルには木陰がちょうど良い日だった。午後は思い思いに過ごした。
今日は、ネパールでは、王様が印刷してある古いお札が使えなくなる日だそうだ。昨夜、水を買いに行ったとき、古い札を受取りたくないような様子だったが、今日になって納得できた。銀行に行けば取り替えてくれるそうで、その後も、使うことは出来た。

洗濯日和

フイッシュテールロッジのダリアの花

チベット村の絨毯工場
3月16日(水)ポカラ〜カトマンズ
空路カトマンズに帰る。春霞がかかって山はかすんでしまっていた。ところが、飛行高度まで上がると霞は消え、ヒマラヤの山連が機窓に展がった。見えないと諦めていたので、不意を衝かれた。
カトマンズに戻って、いつものピッザ屋さんで昼食を済ませ、園田さんと2人は、女性3人と別れ、マルちゃんの案内で、ボダナートとスワヤンブーナ(モンキー寺)の観光に出かけた。観光は2時間ほどで終わり、「ルートネパール」という主が日本語を話す土産物屋に立ち寄ってルピーを使い切るべく土産を探した。10,000円を両替しただけだったが、結構使いでがあった。
夕食は、また、「古都」に行った。カトマンズ最後の晩餐はすきやきだった。
停電になるとカトマンズでは一斉にジーゼル発電機が始動する。店がきれいになっただけでなく、この辺も変わった点だ。
変わった点といえ、すっかり感心したり驚いたりしたが、ロッジのプラグは汎用になっていたことだ。迂闊にもアタッチメントプラグを忘れてしまった。ホテルでは借りられるだろうと思っていて、その通りだったが、その後が心配だった。しかし、嬉しいことに杞憂に終わった。バッテリーの持ちも良くなったので、充電は1回で間に合いはしたのだが。メモリーカードも容量の大きいのが安くなり、携帯用のHDがいらなくなった。海外旅行に持っていく撮影機材は、フイルムに比べれば、全く、コンパクトになった。

ボウダナート ストウーパ(仏塔)

スワヤンブナート



アサントーレの朝市
3月17日(木)〜3月18日(金)カトマンズ〜バンコク乗り継ぎ〜中部国際空港
飛行機は14:30発。たっぷり時間があったので、アサンチョークの朝市に出かけた。どこから集まってくるのか、広くない道の両脇に野菜、乾物、穀物、香辛料等々に、揚げ物屋、日用品の店が並ぶ。活気というか混沌というか、圧倒されてしまう。
ホテルに帰ってゆっくり休み、10:45ホテルを出る。11時少し過ぎに空港に着き、チエックインをして、ボーデングチエックを待つ。
バンコクでも7時間半余待つ。夕食のトムヤンクンが旨かった。ここの免税店には椅子が少ない。腰を下ろすには飲食店に入れということなのだろうか。

TG644便は早朝のセントレアに無事着陸した。ここで長野、北海道、桐生にと分かれる。
東京から予定していた列車が、計画停電とやらのせいで、走っていない。新幹線は走っているというので、それでは熊谷まで行き、バスと車を乗り継いで、やっと、桐生にたどり着けた。
永そうに思えた旅も終わってみるとあっという間だ。今までとは違ったトレッキングになり、新しい体験ができ、体も、寝られないことを除けば、楽だった。まあ、いつものことではあるのだが、もっと好奇心を逞しくして、あれやこれやを貪欲に見聞きし、撮っておけば良かったのにという思いが残っている。車を使ったために素通りしたが、立ち寄ってみたかった村もいくつかあった。そんな思いがあるから、また、次を考えることになるのだろうか。
気持ち良く旅をさせてくださった同行のみなさんに多謝。
また、この旅行中、親身に面倒を見てくださったヒラさんとナラさんにも多謝。
日本では大変なことが起きていて、暢気に旅などしていたことに後ろめたさを感じたりもするが、なにはともあれ、無事に帰れたことを喜びたい。

帰国の朝(Yak&Yeti Hotel 前にて)





ネパールの子供たち



海外登山と世界の山旅