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99年になって、時間もとれそうなので、再び仲間達にエベレストの計画を打診する。相変わらず計画に乗ってくる者はなく、参加者は集まらなかった。そんな時、知人のシェルパからグルジア隊が国際隊を募り、遠征費用をシエアして登ろうと言う話を聞く。早速KTMに飛び、即、参加を決める。 登山に出かける前、クーンブで約1ヶ月のトレーニングに出かけた。仲間の矢口も同行する。ナガルツァンピーク5083mや、アイランドピーク6100mで、エヴェレストに備え、高所順応をおこなった。順調に順応活動を終え、3月末カトマンズに戻る。 KTMでは4日間滞在、その後、チベットに入る。 国際隊のメンバーは、グルジアの2名、アメリカ、ポーランド、ユーゴスラビア、日本から各1名の6名構成。私とユーゴの1名を除き,皆んな2回から4回目のエベレストへのチャレンジだった。なかでもポーランドの、Ms.アンナは今回が4度目の挑戦(この年も登れず、2000年5度目の挑戦で登頂した)、ユーゴから参加のゾランは、出国前、内戦が起こり、ブルガリアに脱失、バンコック経由でネパールに入り、チベットへは2日遅れで合流する。皆それぞれの思いでこの登山に賭けている。 BCには4月10日に到着。翌日からBC近くの6000m峰で幾度か高所順応をおこなった。 BCについてから数日して、なんとなく体調に違和感を感じるようになる。時々嘔吐をするようになり、それが日を追っておかしくなる。痛みは何も感じず、倦怠感が伴い、体力のみが消耗していく。 いったい自分の身体に何が起こったか判らない。 上部キャンプには2度上がるが最後にABCで最悪の事態になる。 一晩中嘔吐が続き、黒い血があふれ出た。痛みはなにも感じない。ただ、苦しいのみ、貧血状態でからだがふらふらする。 チ−ムの仲間達が心配してくれるが、どうする事も出来ない。 ABCでの夜、一晩経過して、更に悪化している事を感じる。単なる高度障害程度に考えていたが、どうやらとんでもない事になっていると感じる。 このままではまずい。命にかかわるかも知れない。 隊にも迷惑がかかるし、チームの仲間達の足をひっぱる訳には行かない。これ以上のダメージを受けない為にも下山を決意する。 BCに戻っても一向に回復の兆はない。むしろますます悪化している感じだ。 シェルパ達にKTMで治療して、必ず戻るから、頂上アタックの装備、食料をファイナルキャンプに運びあげておくよう頼み、KTMに向かう。 登山終了迄、まだ充分に日程はあった。朦朧とする意識のなかで、繰り返し、頂上へのタクテックスを考えていた。 ネパールへの道は、チベット高原をランドクルーザーを走らせ、長い苦痛の旅だった。 KTMでは日本大使館の相川ドクターに診察を依頼する。出来る限りの検査、治療をしていただき、ホテルでの点滴を続ける。 さらに詳しい精密検査が必要と言うことだが、ネパールでの医療設備には限度があった。 BKKの病院を紹介された。タイの日本大使館にも連絡をとっていただく。 BKKの病院では生まれて初めて胃カメラをのむ。病名はピロリキンだと診断される。 再起不能の宣告だった。 駄目だとは思っていたが、やはり・・・という思い。 もう再びチベットに戻る事はない。 今まで、身体には自信があった。 山でこんな形で敗退すると言うこともむろん初めての体験だった。 エベレストは見果てぬ夢のままで終わった。 |
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チベット高原から望むヒマラヤ山脈中央がチョモランマ(エヴェレスト) |
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