エベレスト(チョモランマ)8848m国際登山隊
International Everest Expedition 1999
     
エベレストとのかかわりは今から25年ほど前にさかのぼる。当時エベレストの登山許可は1年に数隊のみ、申請はしたものの10年先までは予約でいっぱいだった。それでも仲間と、いつかはエベレストへ、と言う思いで申請書だけは提出しておいた。その後、1年ほど経過した夏、冬のシーズンに登山のキャンセルが出たので登りにこないかと言う連絡がネパール観光省から入った。早速計画書を作成、仲間を集め「冬のエベレストに行こう」と誘うが、誰もが、冬季は無理だ、準備期間もない、それに資金的にも厳しい、と、参加する者がいなかった。皆、それぞれに家庭を持ち、仕事を持っている。高額な金をかけて、エベレストにでかけるほど余裕がないのが実態だった。やむなくこの計画は断念した。その後エベレストは暫く忘れられた存在になった。



99年になって、時間もとれそうなので、再び仲間達にエベレストの計画を打診する。相変わらず計画に乗ってくる者はなく、参加者は集まらなかった。そんな時、知人のシェルパからグルジア隊が国際隊を募り、遠征費用をシエアして登ろうと言う話を聞く。早速KTMに飛び、即、参加を決める。
登山に出かける前、クーンブで約1ヶ月のトレーニングに出かけた。仲間の矢口も同行する。ナガルツァンピーク5083mや、アイランドピーク6100mで、エヴェレストに備え、高所順応をおこなった。順調に順応活動を終え、3月末カトマンズに戻る。
KTMでは4日間滞在、その後、チベットに入る。

国際隊のメンバーは、グルジアの2名、アメリカ、ポーランド、ユーゴスラビア、日本から各1名の6名構成。私とユーゴの1名を除き,皆んな2回から4回目のエベレストへのチャレンジだった。なかでもポーランドの、Ms.アンナは今回が4度目の挑戦(この年も登れず、2000年5度目の挑戦で登頂した)
ユーゴから参加のゾランは、出国前、内戦が起こり、ブルガリアに脱失、バンコック経由でネパールに入り、チベットへは2日遅れで合流する。皆それぞれの思いでこの登山に賭けている。

BCには4月10日に到着。翌日からBC近くの6000m峰で幾度か高所順応をおこなった。
BCについてから数日して、なんとなく体調に違和感を感じるようになる。時々嘔吐をするようになり、それが日を追っておかしくなる。痛みは何も感じず、倦怠感が伴い、体力のみが消耗していく。
いったい自分の身体に何が起こったか判らない。
上部キャンプには2度上がるが最後にABCで最悪の事態になる。
一晩中嘔吐が続き、黒い血があふれ出た。痛みはなにも感じない。ただ、苦しいのみ、貧血状態でからだがふらふらする。
チ−ムの仲間達が心配してくれるが、どうする事も出来ない。
ABCでの夜、一晩経過して、更に悪化している事を感じる。単なる高度障害程度に考えていたが、どうやらとんでもない事になっていると感じる。
このままではまずい。命にかかわるかも知れない。
隊にも迷惑がかかるし、チームの仲間達の足をひっぱる訳には行かない。これ以上のダメージを受けない為にも下山を決意する。

BCに戻っても一向に回復の兆はない。むしろますます悪化している感じだ。
シェルパ達にKTMで治療して、必ず戻るから、頂上アタックの装備、食料をファイナルキャンプに運びあげておくよう頼み、KTMに向かう。
登山終了迄、まだ充分に日程はあった。朦朧とする意識のなかで、繰り返し、頂上へのタクテックスを考えていた。

ネパールへの道は、チベット高原をランドクルーザーを走らせ、長い苦痛の旅だった。
KTMでは日本大使館の相川ドクターに診察を依頼する。出来る限りの検査、治療をしていただき、ホテルでの点滴を続ける。
さらに詳しい精密検査が必要と言うことだが、ネパールでの医療設備には限度があった。
BKKの病院を紹介された。タイの日本大使館にも連絡をとっていただく。
BKKの病院では生まれて初めて胃カメラをのむ。病名はピロリキンだと診断される。
再起不能の宣告だった。
駄目だとは思っていたが、やはり・・・という思い。
もう再びチベットに戻る事はない。
今まで、身体には自信があった。
山でこんな形で敗退すると言うこともむろん初めての体験だった。 
エベレストは見果てぬ夢のままで終わった。


チベット高原から望むヒマラヤ山脈中央がチョモランマ(エヴェレスト)
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